歴史と文化

「甲斐絹」の由来

   甲州織物と言えば、”甲斐絹”と呼ばれるほど有名な”甲斐絹”。誕生したのは江戸時代のことですが、当時は同じ「かいき」と発音しても文字での表記は”改機””加伊岐”など様々。最も多く使われていたのが”海気”とのこと。
 この”海気”、明治になってますます盛んになり、山梨で一番多く織られていたことから、その当時山梨県知事・藤村紫郎が、甲斐の国の甲斐をとって、”甲斐絹”としたのが始まり。
 当時の甲斐絹の”快気炎”が聞こえてきそうなエピソードです。
 


秦の始皇帝の家来が伝えた富士吉田織物
   富士吉田市を中心とした富士山の北麓は、約1000年前から織物が織られていた、まさに織物のふるさと。その歴史をひもとくと、実はさらに昔の2200年前以上にさかのぼることができ、中国から織物が伝えられたという伝説が残されています。紀元前219年、秦の始皇帝の家来の徐福がこの地に織物の技術を伝えたというもの。
 秦の始皇帝の東方蓬莱の国(日本)の不死(富士)の霊山に不老不死の霊薬を探するという名を受けた徐福は、大勢の部下を連れ東海の浜から峠を越えて、阿祖谷(現在の富士吉田市大明見)から大室の原に入ったという。
 しかし、そんな霊薬などどこを探してもあるはずもなく、故郷に帰れば、始皇帝に首をはねられるというので、この地に定住。幸い、中国は古代数千年も前から”養蚕・機織(はたおり)”が盛んな国で、徐福らもこの技術の巧みだったことから阿祖谷の里人に教えたのが富士吉田織物「甲州織」の起源だとされています。
 その後、徐福は亡くなり、鶴になり、故郷の秦の国を思い偲んでいたというが、その鶴も数千年後には死に、死んで落ちたところが富士吉田市の福源寺の境内。この境内の片隅にある鶴塚の碑は、徐福の化身の鶴が眠っている所とされています。
 


江戸文学の華
   江戸時代のはじめに、代官の秋元但馬守の殖産興業策によって、生産、質量とともに著しく発展した当地の織物。その品質の高さは、多くの人々を魅了し、有名な甲斐絹が一世を風靡したのが元禄時代です。
 平和になり、特に江戸の武士や町人たちはゆとりができ、贅沢な物が入り込み、派手な生活となったため、美しく豪華で質の高い郡内絹(甲斐絹)のような高級品が人気を集めるのも当然でした。いわゆる元禄風が上方から流れるにつれて、郡内絹がますます増えてきました。
 井原西鶴の「好色一代男」「好色一代女」に登場したり、八百屋お七が火あぶりの刑に処せられたときにも着ていたなど、当時の風俗の中に郡内絹を多く見ることができます。
 奢侈的な染織物をはじめ、歌舞伎の発達、旗本奴の対立、伊達男の横行、いずれも元禄を中心として世を風靡したこの頃、こんな風俗風潮の郡内絹の市場進出に一役買ったようです。
 





(C)Copyright 2009 Fujiyoshida Textile Cooperative, all rights reserved. 富士吉田織物協同組合